和歌ブログ [Japanese Waka]

国文系大学院生がひたすら和歌への愛を語る記録

桜の和歌 次の春まで、私の命はあるだろうか ― 心あらばにほひを添へよさくら花のちの春をばいつか見るべき

  五十の御賀すぎてまたの年の春、鳥羽殿のさくらの盛りに、
  御前の花を御覧じて、よませ給うける
心あらばにほひを添へよさくら花のちの春をばいつか見るべき
                    (千載集・雑歌・鳥羽院/男性・1052・12世紀)

 

現代語訳

  五十歳の祝賀を行った次の年の春、離宮の鳥羽殿の桜の満開の日に、
  御目の前の桜をご覧になって、お詠みになった(歌)
(残り少ないであろう私の命を思いやる)心があるならば、(この上なく)美しく咲いてはくれないか、桜の花よ。次の年の春を私はいつ見ることができるだろうか。(いや、わたしの命は今年限りであろうから。)

 

内容解説

まずは舞台設定を整理します。作者の鳥羽院天皇の位を退いたのちに絶大な権力を握り、この鳥羽殿のあるじとして君臨している。院政期、といいます。「五十の御賀」とは50歳になった長寿のお祝いのことです。40歳前後で亡くなってしまう人が多い時代に50歳は大変に長生きです。上皇の長寿ですからそれはそれは盛大に祝ったその翌年、その鳥羽院が「さくらの盛り」に桜を見ている。毎年見てきた桜。自分の離宮である鳥羽殿の、自分のために咲いている桜。

 

長寿を迎え、それはつまり、残りの寿命はもうわずかもない。今までそうは思ってこなかった。むしろ、桜はあっというまに散ってしまうはかないものだと思っていた。ところが死を目の前にして、桜は来年も同じように咲くけれど、自分が来年この世に生きているという保証はどこにもないのではないか。

平安末期の最高権力者であった鳥羽院。鳥羽殿の主となり、時の天皇を抑え摂関家を抑えて政治を動かした治天の君。全てを支配した鳥羽院が、自らの死だけはどうすることもできない。

 

古語の「匂ひ」は嗅覚による美しさではなく視覚による美しさもさします。この「匂ひを添へよ」がだいぶ訳しにくくて困るんですが、「桜のさかり」に「もっと美しく咲け」というのは本当はおかしい。これ以上ないほど美しく咲く花に、さらにこの世のものならぬ美しさを求めているわけです。自分がこの世にいられる時間はあとわずかしかない。これが自分が見る最後の桜だと悟っているから。桜に「心あらば」というのもおかしくて、花に心があるならばもっと美しく咲けと言ってもどうしようもない。どうしようもないものをどうにかさせようと、でもどうしようもないのは鳥羽院の命も同じこと。

満開の桜、暖かな春風、人々の祝賀につつまれて、私のいのちはいくばくもない。鳥羽院と桜の、閉ざされた永遠の一瞬。

 

と、言ってみたものの、この歌をどこまでわたしが理解しているかと聞かれるとおぼつかない気がします。わかる気はしているのです。人が必ず死ぬということも、明日死ぬかもしれないということも、そのあとも変わらずこの世が続いてゆくだろうということも。わからないのは「五十の御賀すぎてまたの年の春」です。老いるということ、老いて余命を数えるということが私にはまだわからない。この歌は老いののちに死を思う歌であって、高いところから見る景色は違って見えるように、若輩者が考える死と、老いという階段を上った人から見る死はまた違うものなのでしょうか。そうだとしたら、この歌に詠まれた死もわたしは理解していないのかもしれません。

そうだとしても、この「のちの春をばいつか見るべき」という言葉はもうここ何年もわたしを捉えて放さない。桜を見るたびに一年が過ぎたということを、散りゆく桜の花のように人生が過ぎ去っていくということを、そしてわたしもいつか最後の桜を見るということを、このわずか14文字の中に見るからです。

 

死ぬということと老いるということは(おそらく)別のものであって、この歌の老いという側面をわたしは理解していない。わからないのに想像的に追体験できるということも不思議なら、この世には実際に生きてみなければわからないことがあるのも不思議なことです。当たり前のことなのですが。

 

古典文法解説

―敬語・「せ」の見分け方・接続助詞「ば」・にほひ・「か~べき」

 

Q 「ご覧ず」は敬語である。

A いまでも「ご覧になる」「ご覧ください」といいますね。文法の教科書の敬語のところを見てください。尊敬語です。「ご覧ず」があるのではないかとおもいますが。いかがでしょうか。尊敬語は動作をしている人に対する敬意ですから、ここでは「ご覧ず=見る」という動作をしている鳥羽院に対する敬意です。『千載集』を作ったのは藤原俊成ですから、俊成から鳥羽院に対する敬意、と答えれば完璧です。「御賀」「御前」も同様に、俊成から鳥羽院への敬意です。「御前」は「鳥羽院の御目の前」という意味で、現代語で呼びかける「おまえ」ではありません。

 

Q 「せ給うける」も敬語である。

A 「せ」から行きましょう。文法の教科書の最後のあたりに、「まぎらわしい語の見分け方」というページがありませんか。出版社にもよりますが、そこに「せ」があるはずです。教科書がない方は古語辞典で「せ」をひいてみてください。「せ」の見分け方というコラムがあると思います。

「せ」ときたら3つ思い出してください。
①サ変動詞「す」の未然形。
②過去の助動詞「き」の未然形(連用形に接続)。
③尊敬/使役の助動詞「す」の連用形(四段・ナ変・ラ変動詞の未然形に接続)

です。

 

サ変動詞の活用を覚えませんでしたか。「せ・し・す・する・すれ・せよ」と唱えた記憶が頭のどこかにおぼろげに。覚えていない方は覚えてください。何々形に接続というのも覚えなくてはなりません。覚えられたら②と③も覚えましょう。全部覚えていれば間違いの排除ができます。

活用を覚えたらもうひと手間かけてください。教科書の活用表と、「紛らわしい語の見分け方」のページを見比べて、ここでは「せ」ですが、助動詞の活用表の、②過去の助動詞「き」の未然形と、③尊敬/使役の助動詞「す」の連用形の「せ」にマルして線で結んでおきましょう。そうしたら、活用表の欄外に「①サ変動詞「す」の未然形も「せ」」と書いてここも線で結んでおきましょう。これは必ず必ずやっておきましょう。活用表をただ覚えても古文を読めるようにはなりません。「紛らわしい語」の区別ができて、初めて古文が読めるようになりますし、試験の点もあがります。教科書を汚したくない? それは違う。教科書に書き込めば書き込むほど成績はあがります。Believe me. 

 

さて、「詠ませ」の「せ」は①~③のどれでしょう。ヒントはふたつあります。まずは活用形。①と②の「せ」なら未然形ですから、「せ」の下に未然形に接続する言葉が来るはずです。③は連用形ですから、下に連用形に接続する言葉が来るはずです。「せ」の下にあるのは「給う」ですから、「給う」が何かがわかればよい。用言!とわかった方は合格。
??となった方は覚えてください。「動詞」「形容詞」「形容動詞」の3つをあわせて「用言」といいます。「給う」は動詞ですから、用言です。下に用言が来るから「せ」は連用形です。①~③のなかで連用形なのはどれだ? ③の尊敬/使役の助動詞「す」です。「す」は尊敬と使役の両方の意味があります。ここでは鳥羽院が和歌をお詠みになった。鳥羽院への敬意です。

ここまでよろしいですか。よろしければ先に進んでください。微妙ならもう一回読みましょう。


よろしい方は検算です。ほんとうに③でいいのか、もうひとつのヒントを見てみましょう。「せ」の連用形の下に、用言の「給う」が接続するのはわかりました。では、「せ」は何に接続するのでしょう。さっきとは逆です。「せ」の上にある「詠ま」の活用形は、何形か。③は四段活用の未然形に接続するのか?する!正解!ということになります。①の接続は決まっていませんからヒントになりません。②は連用形に接続しますから「詠み」という連用形になるはずです。検算終わり。

 

ここもよろしいですか。よろしければ教科書の敬語のページの、「最高敬語」の欄をご覧ください。今の「ご覧ください」は、教科書を「見る」皆さんに対して、このブログの筆者であるななこからの敬意です。
「せ給う」は最高敬語です。尊敬の助動詞「せ」と尊敬語「給う」が二重になった形だからです。地の文では天皇や中宮、上皇といった極めて高い身分の人にしか用いられません。会話文ではそうでもないのですが、ここでは地の文で鳥羽院の動作を示しているわけですから、二重に敬語を使っています。

 

なのですが、「せ給う」ときたら尊敬の場合と使役の場合があります。これは内容と状況から判断するしかありません。「誰々にさせた」と明らかにわかる場合は使役です。ここでは特に「誰々に詠ませた」とは書かれていないことと、「ご覧じ」と「詠ませ給うける」と、作者名がともに鳥羽院ご本人であることから、鳥羽院が歌を詠んだと解釈します。

 

ところで、「給う」になっているのは「給ひ」がウ音便を起こしているからです。元々の形は「給ひける」で、ウ音便の結果「給うける」になりました。ですので「給うける」でも「給ひける」でもどちらでもよろしい。ここではたまたま「給う」になっているだけのことです。ウ音便とはなんでしょう。文法の教科書でチェックしてください。「給ふ」があるときには動詞の最初に「お」をつけて敬語らしく訳します。すなわち、「お詠みになった(和歌が、次の歌です)」。

長い説明でした。どうぞひとやすみしてください。

 

Q「心あらば」

A「ば」ときたら、上の動詞が未然形か已然形か確かめなくてはなりません。未然形なら「もし~ならば」、已然形なら「~なので」と訳します。

 

Q「にほひ=匂ひ」

A嗅覚で捉える美しさを指すこともあるし、視覚で捉える美しさを指すこともあります。平安時代には、あざやかで明るく、照り映えるような、つややかなみずみずしさ、生き生きとした美しさを指し、鎌倉時代以降はほのぼのと心にしみる美しさを指す(日本国語大辞典)。のだそうです。視覚か嗅覚か、前後の文脈から判断してください。桜餅ではないので、ここは視覚です。

 

Q「いつか見るべき」

Aこういうの、すらすら訳せるとラクですよね。でも、「えーっと、『いつか』っていうのは一語なのかな?『いつ/か』で切れる可能性もあるな。それから『べき』ってのは、推量、意志、当然、適当、命令、可能の意味があるから、ここではなんだっけ?」という考え方は私はしません。
「いつか~べき(いつ~するだろうか)」「何か~べき(どうして~するだろうか)」などといった形で覚えています。これはもうパターンですから。英語にクジラ構文「no more than/no less than」ってありますね。あれは訳ごとまるっと覚えます。いちいち「no more」はこういう意味だから…なんて考えない。それと同じです。
そもそも「べき」という形は連体形で、連体形になっている理由がどこかにあるはずで、上に係助詞の「か」があるのだから「か~べき」はひとかたまりとして扱うべき。と、考えます。わたしはね。

もちろん、「か」ときたら「疑問か反語」「べし」ときたら「推量、意志、当然、適当、命令、可能」というのは反射的に思い出せます。そこは慣れです。
ここでは「私のことを思ってくれるなら美しく咲け。桜の花を次の春に…」なわけですから、「見ることができるだろうか?いや、できないだろう」と、可能と反語で訳しました。

 

まとめますよ。

★尊敬語は動作をしている人への敬意。主な尊敬語と訳し方を覚えておく。

★まぎらわしい語は、その言葉「せ」自体の活用形と、その言葉「せ」の接続とその上にある言葉「詠ま」の活用形で判断する。

「ば」ときたら、上の動詞が未然形か已然形か確かめる。

★「にほひ」は視覚による美をあらわす。

★係助詞「か」は「疑問か反語」。助動詞「べし」ときたら「推量、意志、当然、適当、命令、可能」。これは覚える。

★「いつか~べき(いつ~するだろうか)」「何か~べき(どうして~するだろうか)」もパターンとして覚える。
★「いつか~べき(いつ~するだろうか)」の「いつ」が反語である可能性を考える。「いつ~するだろうか(いや、~しない)」
「するだろうか」が「意志、当然、適当、命令、可能」である可能性も考える。
以上。

 

品詞分解

  名詞/格助詞/名詞/ガ行上二段活用動詞「すぐ」の連用形/
  五十/の/御賀/すぎ/

  接続助詞/名詞/格助詞/名詞/格助詞/名詞/名詞/
  て/また/の/年/の/春/鳥羽殿/

  格助詞/名詞/格助詞/名詞/接続助詞/名詞/格助詞/名詞/
  の/さくら/の/盛り/に/御前/の/花/

  格助詞/サ変動詞「ご覧ず」の連用形/接続助詞/
  を/御覧じ/て/

  マ行四段活用動詞「よむ」の未然形/尊敬の助動詞「す」の連用形/
  よま/せ/

  ハ行四段活用動詞「給ふ」の連用形「給ひ」のウ音便/
  給う/

  過去の助動詞「けり」の連体形
  ける

名詞/ラ変動詞「あり」の未然形/接続助詞/名詞/格助詞/
こころ/あら/ば/にほひ/を/

ハ行下二段活用動詞「そふ」の命令形/間投助詞/名詞/
添へ/よ/さくら花

名詞/格助詞/名詞/格助詞/係助詞/名詞/係助詞/
のち/の/はる/を/ば/いつ/か/

マ行上一段活用動詞「見る」の終止形/可能の助動詞「べし」の連体形
みる/べき