恋の和歌 一瞬の、君 ― 朝影にあが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに
朝影にあが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに
(万葉集・巻第十一・正述心緒・2394・8世紀)
現代語訳
朝方の(薄く弱々しい)影のように、わたしの身は(やつれて細く)なってしまいました。ほのかに(私の目の前に)現れてそのまま去って行った(あなたのたおやかな姿。そしてそれから一度も逢えない)あなたのために。
内容解説
前回の続き。「~ゆゑに」の意味は?――理由です。逆説の接続助詞ではありません。
恋をしたわけです。相手がどんな女性かもよくわからない。「ほのかに」ですからはっきりと顔を見たわけでもない。話をしたこともない女性です。外出した際にすれ違ったのでしょうか、誰かの家を訪ねた折に奥の部屋にいたのでしょうか、思いがけずたいへん美しい女性をちらりと見たのです。ほんの一瞬、それもかすかに様子をうかがえる程度。
それ以来彼女の面影がまなうらを離れず、昼も夜も恋にとらわれている。あなたを見たのはほんの一瞬、見たとも見なかったともいえないほどの姿だった。それが、あなたに恋をしたせいで、この私のほうこそ朝影のあるかなきかの弱々しさにやつれてしまった。
「玉かぎる」は枕詞。宝玉がかすかな光を放っているという意味で、「夕」「日」「ほのか」などにかかります。訳出はしませんが、淡く光るイメージを「去にし子」に投影させることはできます。はっきりとも見えなかったあなたのせいで、私までもがはっきりともしない朝影のようにやつれた、と言ってしまえば簡単な対比ですが、「朝影」「玉かぎる」「ほのかに」とつなげたために、朝の薄明かりに宝玉のように淡く照らされていた女性、その彼女に心をとらわれて朝影のうつろうようにやつれて物思いに沈む男性、という絵画的な世界がうまれました。
このふたり、結婚できたんでしょうか。もし結婚していたらこのふたり、8世紀ですからもしかしたら私たちの先祖かもしれません。私たちの何代も何代も何代も前に、きっとすてきな恋があったのでしょう。
古典文法解説
完了と打消の「ぬ」・「ほのかに」・「見えて」・「去ぬ」・「ゆゑに」
Q 「なりぬ」の「ぬ」は完了か打消か。
A さあ、どちらでしょう。見分け方は「なり」の活用形でした。「なり」ときたら、動詞か伝聞推定の助動詞「なり」か断定の助動詞「なり」です。ここでは動詞です。助動詞なら上に必ず何かが必要でした。文法の教科書で助動詞の活用表を見てください。助動詞は必ず何かか、何かか、何かか…、の下につきます。「は」の下に助動詞はつきませんから、この「なり」は動詞。動詞の「なり」はラ行四段活用動詞「なる」の連用形ですから、「ぬ」は連用形に付く助動詞です。連用形に付くのは完了の助動詞「ぬ」の終止形でした。
Q 「ほのかに」の「に」を文法的に説明せよ。
A ナリ活用の形容動詞「ほのかなり」の連用形「ほのかに」の活用語尾です。形容動詞、とは物事の性質や状態を表す言葉です。「あはれに」とか、「しづかに」とか。間違えるとしたら、状態を表す格助詞「にて」との混同でしょうか。「~に」のかたまりで形容動詞と言えるかどうかを考えて下さい。そう考えても形容動詞かどうかわからなければ、古語辞典をひくという手もありますが、古語辞典に載っていない言葉もあります。古文を何度も読んでいるといつの間にか見分けがつくようになりますが、そんなに古文ばっかりやってられないよという方は悩むより先に答えを見たほうが早いと思います。問題集を買うなら解説が充実したものを買いましょう。
言い忘れていました。「に」といえば①完了の助動詞「ぬ」の連用形 ②断定の助動詞「なり」の連用形 ③ナリ活用形容動詞「○○なり」の連用形活用語尾 ④格助詞 ⑤接続助詞 ⑥副詞の一部 があります。全ては説明しません。今日はとにかく③の形容動詞を覚えて下さい。
Q 「見えて」はマ行上一段の「見る」ではない。
A 「見え」の終止形はヤ行下二段活用動詞「見ゆ」です。「見る」ではありません。奈良時代に使われた自発・可能・受け身の助動詞「ゆ」が「見」にくっついた形で、「見ることができる」と可能の意味をこめて訳します。「聞こゆ」なら単に「聞く」ではなくて「聞える」と訳します。
ついでに、「見る」ならマ行上一段活用になります。「着る・見る・似る・射る・干る・居る」です。
Q 「去ぬ」と「死ぬ」はナ変動詞
A 「さりにしこ」と読んでいた人、正直に手を挙げる。「いにしこ」です。「死ぬ」「去ぬ」はナ行変格活用動詞だと習いませんでしたか。習いましたね。ナ行変格活用の活用表、覚えていますか。文法の教科書にナ変動詞のページがあるはずです。マ行上一段活用とともに見ておいてください。
Q 「ゆゑに」
A これを説明したくてこの歌をアップしました、というわけでもないですが、「ものゆゑ」と間違いやすい言葉です。これは~のせいで、と理由を表しています。「ものゆゑ」と勘違いしないようにしてください。
品詞分解
名詞/格助詞/名詞/係助詞/ラ行四段活用動詞「なる」の連用形/
朝影/に/あが身/は/なり/
完了の助動詞「ぬ」の終止形/枕詞/
ぬ/玉かぎる/
ナリ活用の形容動詞「ほのかなり」の連用形/
ほのかに/
ヤ行下二段活用動詞「見ゆ」の連用形/接続助詞/
見え/て/
ナ変動詞「去ぬ」の連用形/過去の助動詞「き」の連体形/名詞/
去に/し/子/
名詞/格助詞
ゆゑ/に