和歌ブログ [Japanese Waka]

国文系大学院生がひたすら和歌への愛を語る記録

春の和歌 冬来たりなば、春遠からじ ― 花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや

  若草
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
(壬二集・六百番歌合・藤原家隆・304・12世紀)

  

現代語訳

  若草(を詠んだ歌)
(まだ花が咲かない春が来ないと)待っているだろう人に、山里に積った雪のあいだにわずかに芽吹いた若草にも春は来ていますと見せたいものです。

  

内容解説

「見せばや」で、「見せたい」という意味です。梅の花桜の花と高い梢ばかりを見て春が来ないと待っているだろう人に、足もとに芽吹く小さな緑にも春は来ているのだと伝えたい。一面降り積もっていた雪がとけて、ところどころ地面が見えているその場所に、雪の厚みがくぼんだように低くなっているところに隠れるように緑の草がそっと顔を出している。

 

これより以前に紀貫之がこんな歌を詠んでいます。春と言えば桜が何より美しいのだからほかの草などものの数ではない、桜が一番、という桜賛歌です。これもまたひとつの見方。
桜よりまさる花なき春なればあだし草葉を物とやは見る
   (古今和歌六帖・紀貫之・4176・10世紀)

 

○ここから先は、感想○

二首とも春の歌です。たんに春の歌であってそれ以上の解釈をする必要はないのですが、家隆の歌は読む人に語りかけるような口調に聞こえる。満開の桜が咲いているときは心おきなく桜を愛でればいい。でも、時には桜が咲かない日がある。いつまでもいつまでも冬が続いて終わらないと思うときがある。さてどうするかと言えばがんばるしかないのですが、がんばってはいるつもりなのですがいまいち花が咲かないときがあって、そういうときには小さな成果も別にたいしたことないとしか思えない。それでもその小さなひとつを積み上げてゆくのだけれど、そのときの気持ちの持ちようというのが難しい。がんばるのと、気持ちがついてくるのは別ですもんね。と、家隆が言っているわけではないのですが。

 

いつでも順調ならそれに越したことはないけれど、それほど大きなことでなくても何か一つ幸せがあると、一日は楽しい。ひとつ小さな成果があれば、とりあえずそれで良し、と。今日は立春。春のはじまり。

 

雪の和歌

あなたでなくて、誰のことを想いましょうか ― 君ならでたれをか訪はむ雪のうちに思ひいづべき人しなければ

雪の抱擁 ― 梅の花降りおほふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消につつ

雪の玉水、緑の松の戸 ― 山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水

  

古典文法解説

Q 「待つらん人」は推量ですか。


A 「現在推量の助動詞「らん」の連体形」、です。記述問題ではここまで答えてほしいところ。訳するときは「~ているだろう」と訳します。いま現在「待っているだろう」と推し量っているから現在推量。いま、とはもちろん、花は咲いていないけれど若草は生え始めたころです。

文法の教科書を「らん」現在の原因推量という意味もあります。

 

Q 「見せばや」


A 『とりかへばや物語』というお話があります。元気な女の子とおとなしい男の子を持つお父さんが、ふたりを「とりかえたい」と嘆くお話です。というわけで、「ばや」は「~したい」。

 

品詞分解

名詞/格助詞/副助詞/タ行四段活用動詞「待つ」終止形/
花/を/のみ/待つ/

現在推量の助動詞「らん」連体形/名詞/格助詞/名詞/格助詞/
らん/人/に/山里/の/

名詞/格助詞/名詞/格助詞/名詞/格助詞/
雪間/の/草/の/春/を/

サ行下二段活用動詞「見す」未然形/終助詞
見せ/ばや