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和歌ブログ [Japanese Waka]

国文系大学院生がひたすら和歌への愛を語る記録

雑の和歌 友達が挨拶してくれなかったので つづき ― 玉桙のみちゆきずりに訪はずともつねに心はゆきかふものを

  返し
玉桙のみちゆきずりに訪はずともつねに心はゆきかふものを
              (恵慶法師集・103)

 

現代語訳

(近くの)道(を通りかかった)ゆきずりに訪れなくてもいつも(私の)心は(あなたと通じ合い)行き交っておりますものを。

 

内容解説

きのうのつづきなんですけれど、一言かけろよと言ってきた友人に返した歌です。連絡はしなかったけど友情はかわらないよ☆ みたいな返事。歌の内容については、いいです。

 

このやりとりを歌でおこなったということが、現代には失われた人間関係の構築のしかた、なのだなあと思うのです。詳しくはきのうの内容解説に書きましたように、ちょっと微妙な状況なわけです。このやりとりを見る限りたいしたことなかったようですが、友情を「たいしたことない」状態で維持し続けるためにふたりはこのやりとりをきちんと行った。そしてそのやりとりに、和歌を選んだ。人間関係って人間と人間の関係なのに人間の思い通りにならない。動くか、動かないか、どう動くかということは、ほんとに難しい判断なわけです。

 

このふたりのやりとりも、ごくふつうの言葉だったら「わきてしもやは訪ふべかりける」なんて言えないでしょう。強意に強意をかさねて私を訪うべきでしょうなんて。それが和歌という形式をとったことで成功した。人間として、誰かに思うこと、言いたいこと、したいこと、しなくてはならないこと、でもそれをそのままの形で言葉や行動に移すのは難しいということがあって、それを人は何らかの形に移し替えることによって果たそうとする。それを移し替える形式のひとつが、昔は和歌だったのです。全て順調にいったかといえば、送った和歌が不発に終わったり激怒をさそったりの失敗例もあって、万能だったということではないのですけれど、和歌という形式が表現ツールとして格別に重い地位を占めていた時代がありました。(支配層に限る、ですが)

 

古文の授業や入試問題に和歌が出てきますね。物語でも日記でも、ここぞというシーンで和歌が使われる、それはあらゆる人間関係のピーク、恋愛だったり、ケンカだったり、家族間のあれこれだったり、そういった人と人との感情を伝えるための、日常会話とは別に用意されたツールとしての地位を和歌が持っていたから、なのです。言いたい、言えない、どう言ったらいいかわからない、言わないほうがよさそうだけど言わずにいられないといった、ふだんの言葉では伝えられないことを言うことができる。

 

で、それがツールとして成立するためには、言う側だけでなくて和歌を受け取った側もきちんと受け取らなくてはないという了解が必要です。受け取った側にも思うところはあるでしょう。今さらなに言ってんだとか、言われても困るとか、あるでしょうけれど、和歌を受け取ったらそれに応えることを良しとする。尊重する。矛を収める。忖度する。個々の状況や心情を置いておいて、和歌を贈られたらその心に応える。和歌という形で贈られた心に一定の敬意を表する。そういう時代があったのだなあと思います。

 

古典文法解説

Q 「たまぼこの」

A 「道」にかかる枕詞です。枕詞ってなんでしたっけ。和歌の最初につくやつ。そうですね。「ひさかたの」なら「光」にかかるとか、「あしひきの」なら「山」にかかるとか、枕詞自体に意味はないけれど特定の言葉の前に置かれる言葉でした。なんでそんなものをつけるのでしょう。和歌は日常の言葉ではないからです。五七五七七のリズムも含めて、これは日常の言葉ではないですよ、特別なものなのですよ、と主張しているわけです。役者さんのセリフはふだんの会話とはちょっと抑揚が違いますね。そんな感じです。

 

Q 「とも」「ものを」は逆接の接続助詞。

A 逆接、です。「とも」なら「~としても」、「ものを」なら「~のに/~けれども」と訳します。

 

品詞分解


  名詞/
  返し/

名詞/格助詞/名詞/格助詞/ハ行四段活用動詞「訪ふ」未然形/
玉桙/の/みちゆきずり/に/訪は/

打消の助動詞「ず」終止形/接続助詞/副詞/名詞/係助詞/
ず/とも/つねに/心/は/

ハ行四段活用動詞「ゆきかふ」連体形/接続助詞
ゆきかふ/ものを