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和歌ブログ [Japanese Waka]

国文系大学院生がひたすら和歌への愛を語る記録

冬の和歌 わたしは泣いているのでしょうか ― 恋もせず物もおもはぬ袖のうへに涙をながすはつしぐれかな

恋もせず物もおもはぬ袖のうへに涙をながすはつしぐれかな
   (拾玉集・詠百首和歌当座百首・冬・時雨・1443)

 

現代語訳

恋をしているわけでもない、悩み事があるわけでもない私の袖の上に、涙と(みまごうばかりに)ふりそそぐ初時雨であるよ。

 

内容解説

しぐれ。晩秋から初冬へ、一気に季節を塗り替えてゆく冷たい雨です。

 

つらい恋をしているわけでもない、苦しい悩みを抱えているわけでもない、泣く必要など心のどこを探してもないはずのわたしが時雨の空を見つめて、その時雨がまるで涙のように袖を濡らしている。なぜ涙に見えるのか、自分でもわからないのです。

 

華やかに寂しい秋がすぎて一面の冬枯れだからかもしれません。身にしみとおるような寒さゆえかもしれません。この一年が終わってしまう寂しさとも考えられます。本人に特に心当たりがないというのですから、こちらで理由を推測するのは難しいでしょう。時雨に濡れた袖がふと涙のように見えて、あれ、どうしてだろう。そんな思いが自分の中にあるのかと心のうちを見つめ直しても、何も思い当たらないのだけれど。

 

雨の和歌

雨のしずくが落ちるように、あなたを思い続けています ― 雨やまぬ軒の玉水かずしらず恋しき事のまさるころかな

雨の夜に生涯をふりかえる ― 夜もすがら涙も雨もふりにけり多くの夢の昔語り

あやめの香る雨のしずくに ― 五月雨の空なつかしきたもとかな軒のあやめの香るしづくに

 

 

古典文法解説

Q 「恋もせず」の「ず」と、「物もおもはぬ」の「ぬ」はどちらも打消の助動詞である。

A 覚えやすい活用形と覚えにくい活用形とあって、可能の「れ・れ・る・るる・るれ・れよ」あたりはラ行で統一されているけれど、打消の助動詞は「(ず)・ず・ず・ぬ・ね・○」という何のつながりがあるのかわからない活用で、おまけに「ざら・ざり・○・ざる・ざれ・ざれ」なんてのもついていてますますわけがわからない。

 

現代語に残っているのだと何でしょう。「飲まず食わず」とか「鳴かず飛ばず」とか「開かずの扉」とか、このあたりは打消の「ず」です。『沈まぬ太陽』、「ただならぬ様子」、「思わぬ収穫」の「ぬ」も打消です。「~ねばならない」、「武士は食わねど高楊枝」などに「ね」が残っています。

 

で、ですね。「ず」が打消であることはそんなに間違わないと思うのですが、「ぬ」と「ね」はわからなくなる。なぜなら完了の助動詞にも「ぬ」と「ね」があるからです。

 

『風とともに去りぬ』の「ぬ」は完了。『風立ちぬ』の「ぬ」も完了の「ぬ」。キャッチコピーの「生きねば」の「ね」は打消の「ね」です。「なせばなる、なさねばならぬ、何事も」の「ね」も「ぬ」も打消。

 

上に挙げた例、打消と完了である理由が全て説明できるという方はすばらしい。わからんという方は文法の教科書で完了の「ぬ」と打消の「ず」のページを開けてください。教科書の後ろのほうの、紛らわしい語の一覧、みたいなページでもよいです。見分け方はひとつ。上の言葉が未然形か、連用形か、です。上が未然形なら打消の助動詞。上が連用形なら完了の助動詞です。打消か完了かを問う問題は、上の言葉が未然形か連用形かを問う問題だと思ってください。

 

んーと、現代に残る完了の「ね」が何も思いつかない。『百人一首』にあった「玉の緒よ絶えなば絶えね」は完了の「ね」です。現代語にあったかな。あると思うのですが。

 

で、ここの「恋もせず」の「ず」は連用形です。打消の「ず」は連用形と終止形が同じでこれまたわかりにくいのですが、これは連用中止法という用法です。いまでも「そうとは知らず、失礼しました」などと使いますね。「そうとは知らなくて、(それで、こんなことをしてしまい)失礼しました」という意味です。「恋もせず」と「物も」の間も終止形できっぱり切れるのではなく、「恋をしているわけではなくて」それから「物思いをしているわけでもなくて」とふたつの文がつながっています。

 

さてさて以上の解説は全て以前のコピペですが、語学はひたすら復習するしか道がないのです。

 

品詞分解

名詞/係助詞/サ変動詞「す」未然形/打消の助動詞「ず」終止形/
恋/も/せ/ず/

名詞/係助詞/ハ行四段活用動詞「おもふ」未然形/
物/も/おもは/

打消の助動詞「ず」連体形/名詞/格助詞/名詞/格助詞/
ぬ/袖/の/うへ/に/

名詞/格助詞/サ行四段活用動詞「ながす」終止形/
涙/を/ながす/

名詞/終助詞
はつ時雨/かな