和歌ブログ [Japanese Waka]

国文系大学院生がひたすら和歌への愛を語る記録

夏の和歌 魂はどこへ ― うつせみの殻は木ごとにとどむれどたまのゆくへを見ぬぞかなしき

  からはぎ
空蝉の殻は木ごとにとどむれどたまのゆくへを見ぬぞかなしき
  (古今集・物名・読み人しらず・448・10世紀)

 

現代語訳

蝉のなきがらはその命を終えた木ごとに留まっているけれど、その魂のゆくえを見ることがないのは悲しいことだ。(あれほど力強く鳴いていた蝉たちの、その魂はいまどこにいるのだろう)。

 

内容解説

夏はむやみにせつないものです。特に夏の夕暮れの、また夏の終わりのころは何とも言えずさびしいものです。豊穣の夏が終わりゆっくりと季節が秋に向かってゆくなかで、あのうるさかった蝉が静かななきがらになっているのはもう何とも言えずかなしいものです。もう、秋と言うべきなのでしょうか。

 

蝉が脱皮した抜け殻と、蝉本体と、両方を空蝉といいますが、ここでは魂が抜けたといっていますから成虫の死骸です。物言わぬ蝉が命を終えたそのところどころの木にとどまって、うつろな目にさいごの夏空を映している。そのひとつひとつのなきがらの、たましいはどこにいったのだろう。なきがらという言葉のとおり、あれはたしかに「殻」にすぎなくて、生きていたそれ、人でもペットでも路傍の虫でも、生きていたそれそのものはもうそこにはいないという気がします。そう、たましいは、どこへいってしまったのでしょう。

 

ところでこの歌、詞書に「からはぎ」とあって、「からは木ごとに」の中に「からはぎ」という言葉を隠しています。このように歌の中にその歌の趣旨とは関係のない言葉を詠み込むことを「物名(もののな)」といいます。『日本国語大辞典』によると「からはぎ」とは「唐萩」という植物の種類か名前のことではないかと思われるがよくわからないとのこと。

 

夏の和歌

木の葉に雨がたたきつけられてセミの声が静かになる ― 蝉のこゑは風にみだれて吹きかへす楢の広葉に雨かかるなり

あの山のむこうも、もうきっと日が暮れている ― ひぐらしの鳴く山かげは暮れぬらむ夕日かかれる峰のしら雲

炎天下に風が止まるとどうしようもないよね ― 水無月の草もゆるがぬ日盛りに暑さぞしげる蝉のもろ声

 

古典文法解説

Q 「とどむれど」は「とどまれど」ではないのか。

 A 和歌の自動詞と他動詞の問題です。入試には関係ないので気にしないでください。自動詞は「わたしは空を飛ぶ」のように、主語本人の動作を表します。他動詞は「わたしはロケットを飛ばす」のように、主語以外の動作を表します。「消える/消す」「立つ/立てる」のような区別をしますね。同じように「留まる/留むる」は意味が違うのです。

 

ですので、「とどむれど」を現代語訳すると、「蝉の死骸が留めているけれど」となります。「死骸が(何かを)留めている」という意味です。「とどまれど」を現代語訳すると、「蝉の死骸が留まっているけれど」になります。留まっているのは蝉の死骸ですから、何かを留めていると読める要素はなさそうです。よって、「とどまれど」とあるべきではないかと思うのですが、和歌や俳諧にはときどきこういう自動詞と他動詞の謎があります。文法上はこっちなんだけど、意味上はそっちでしょ、という。「荒海や佐渡に横たふ天の川」も「天の川が横たわっている」のであって、「天の川が(何かを)横たえている」わけではないはずなのですが、うーん。

 

品詞分解

名詞/格助詞/名詞/係助詞/名詞/格助詞/
空蝉/の/から/は/木ごと/に/

マ行下二段活用動詞「とどむ」已然形/接続助詞/
とどむれ/ど/

名詞/格助詞/名詞/格助詞/マ行上一段動詞「見る」未然形/
たま/の/ゆくへ/を/見/

打消の助動詞「ぬ」終止形/係助詞/シク活用形容詞「かなし」已然形
ぬ/ぞ/かなしき