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和歌ブログ [Japanese Waka]

国文系大学院生がひたすら和歌への愛を語る記録

桜の和歌 桜が散って、わたしはひとり取り残される ― ながらへて生けらばのちの春とだに契らぬさきに花の散りぬる

ながらへて生けらばのちの春とだに契らぬさきに花の散りぬる
   (新後撰集・雑歌・後深草院弁内侍/女性・1252・13世紀)

 

現代語訳

(私がこの命を)ながらえて生き続けることができたならば、また次の春に(きっとお逢いしましょう)と、せめてそれだけで も(約束しよう)と思ったのに、そう約束もできないうちに花は(はかなく)散ってしまった(そのあとに、私はひとり、取り残される)。

 

内容解説

前回の続き、ではなくて、鳥羽院からもっと後の後嵯峨院後深草院の時代に生きた女性の和歌です。「ながらへて生けらば」ですから、「もし私が来年までながらえて生き続けることができたならば」です。春が、この春が過ぎようとしている。あとほんのしばらくでもいいからこの桜の花と一緒にいたい。その時間すら許されないなら、せめてまた来年の春もう一度会いたいと思ったのに、それすら約束する間もなく桜の花は散ってしまって、わたしはひとりここにむなしく取り残される。

拾遺集』に、「生けらばのちの春」という言葉があります。愚かなことに我が身我が命に代えても花を惜しいと思ったものであるよ。生きていればまた来年も花を見ることができるのだから、命に代えることなど望まなくてもよかったのだ、という歌。

身にかへてあやなく花を惜むかな生けらばのちの春もこそあれ

  (拾遺集・春・藤原長能/男性・54・11世紀)

 花を惜しむ気持は変わらない。しかしこの歌はまだ、自分が来年も再来年も生きていて、そして同じ桜の花を見ることを疑っていない。

 

一方のこの歌の、「契らぬさきに花の散りぬる」。さしのばした手がむなしく宙に浮く。約束をしようとして叶わなかった私の、取り残された喪失の悲しみ。花にのばした手のひらの空虚なかなしさ。「契らぬさきに」なんて、約束したって何の意味もないのに。「ながらへて生きらば」なのだから、自分だって来年まで生きていないかもしれないと知った上で、それでもなお約束しようとする。美しいものは必ず衰え、あるいは壊れる。手に入れたところであの世まで持っていけるわけではない。そんなことはわかっている。わかっていて人はなお美しいものに手をのばす。美しいものに目を奪われ心を奪われ、またもう一度見たいと約束しようとまでする人の身の哀しさ。

 

○ここから、ちょっと深読み○
歌の主題は「桜が散る」か何かで、「ながらへて生けらば」で人間のはかなさを、「花の散りぬる」で花のはかなさを表しているのでしょうが、それはともかくなんと言ってもこの歌は、「契らぬさき」と言ったところが秀逸。
この歌にはさらに元ネタがあって、のちの春に再会を約束しようと思ったけれどできなかったという『新古今集』の歌を下敷きにしているんだと思います。「え~打消」で不可能表現、のちの春にまた会おうと約束することもできなかった、ですね。
  訪ねつる花もわが身も衰へて後の春ともえこそ契らね(新古今集・153)

新古今集』の歌と弁内侍との類似点がひとつ、相違点がふたつあります。
「契ることができない」と詠んだところが類似点。これは『新古今集』の詠み方を弁内侍が取り入れている。
ひとつめの相違点は、『新古今集』では自分も花も老い衰えた、つまり花と自分が同じ老いた者という立場にいるところ。弁内侍はどう詠んだかというと、花と自分は同じ立場にはいない。同じようにはかないはずの人と花。それなのにその花にさえ取り残された者の哀切な喪失感を描いています。
それからふたつめの相違点。弁内侍は「衰えて」とは言っていない。散る花は美しいままに散り、残された人も老いの衰えを感じさせない。現実の落花と現し身の人の関係を越えて、いわば抽象的な美としての花と、死すべき存在としての人の関係とに昇華させている。

 

単に桜が散るのが悲しいという歌ではない。美しいものは必ずうつろうというのは悲しいことで、美しいものを手に入れようとする人間も必ず死ぬというのも悲しいことで、でもその悲しさはこの歌の主題ではない。この歌のかなしさは、むなしいことだとわかっていてなお美しいものに心ひかれて逃れることのできない人間の性に対する深い哀しみです。水が流れる、季節がめぐる、桜がうつろう、人が死ぬ。誰もが知ってる変えようのないこの世の現象。それなのに、たかが数十年、悠久の時の流れの中では無にも等しい人生の中で人は力の限り喜び悲しみ、美しいものに心奪われて、ただそのためにのみ人は生涯の喜怒哀楽を捧げ、そして同じ春は二度とこない。
「契らぬさきに」という言葉には、約束しても何の意味もないとわかっていながらなお約束をしようとして、その約束も言い終わらないうちに散ってしまったという哀しさが、全ては過ぎ去ってゆくとわかっていてなお美しいものに手をのばす人の身の哀しさが、凝縮されて、あふれている。

 

古典文法解説

―品詞分解・「だに」・格助詞と連体形

 

Q 「生け/ら/ば」ってなんですか。

A 「いけらば」。こういうの、どうしたら品詞分解できるようになるのでしょうか。「いけらば」。まず、「ば」は一語だろうと思いました。「未然形+ば」は仮定条件だと知っているので、たぶん「ば」は一語。「ら」は何かの未然形活用語尾。「らば」で一語ではないでしょう。とアタリをつけます。では、「いけら」。これは「生きとし生けるもの」の「生ける」ではないかと思いました。「生けら」で一語か、「生け/ら」と品詞分解できるのか。これは古語辞典をひきましょう。「生ける」には2語あるはずです。「生ける」と「生け/る」と。このうち、「生ける」は他動詞です。自分が生きるのではなく、他のものを生かしておく。今でも「お花を生ける」といいます。鮮魚の水槽を「生け簀」といいます。これは一語。でもここでは何かを生かしておくわけではありません。作者の弁内侍が来年まで生きているかどうかを話題にしています。ではもうひとつの「生け/る」を見ましょう。四段動詞「生く」の命令形に完了の助動詞「り」の連体形「る」が接続したもの、とあるはずです。完了ですから、「生きている」。仮定条件の「ば」をつけて、「生きているとしたら」。よさそうですね。意味が通じます。

 

Q 「だに」が何だか覚えていません。

A 困りましたね。文法の教科書の、副助詞のページをご覧ください。「だに」「すら」「さへ」とあります。「すら」は迷いません。が、「だに」と「さへ」は覚えてください。「だに」は「せめて~だけでも」「さへ」は「~の上に~までも」という意味です。覚えてください。カレー、お好きですか?「辛いカレーに唐辛子さへ乗っていた」が「さへ」のニュアンスです。カレーが辛い上に唐辛子までも乗っていた。それなのに、「水だに出してもらえず」が「だに」のニュアンスです。ミルクやラッシーなんてとんでもない。水さえ飲ませてもらえなかった。古語の「だに」は、「さえ」と現代語訳します。

これは私の偏見ですが、よい大学のそばには必ずよいカレー屋さんがあります。がんばって大学生になりましょう。おいしいですよ。

 

Q 「花【の】散り【ぬる】」はなぜ連体形なのですか。

A これね。みなさんの文法の教科書、もしくは古語辞典にはどう書いてあるでしょうか。『源氏物語』の名ゼリフ「雀の子を犬君【が】逃がし【つる】」の、主格「犬君が」&連体形「つる」と同じ構造なのですが、学校でどう習いました?というのは、「日本語には本来主格を示す助詞はなく、「が」助詞の主格用法は(略)連体格用法から出たものと考えられる。従って古くは述語が終止形をとることはなく(日本国語大辞典)」という法則がありまして、平たくいうと、主格の「花の」「犬君が」の述語となる言葉「散りぬる」「逃がしつる」は連体形になるという法則があるのですが、格助詞「の・が」を無視して感動を表す連体止め、とのみ習っている方も多いのではないでしょうか。
わたしが高校で習った明治書院の文法書には「「が」「の」が主語を示す場合、その述語は終止形にならず、他の文節を修飾し、下に続く」とあります。わたしが高校で教えた東京書籍の文法書には何とも書いてありません。みなさんのお手元の文法書ではどうなっているでしょうか。もしくは、現役の先生方はどう教えていらっしゃるでしょうか。
枕草子』の「紫だちたる雲【の】細くたなびき【たる】」はどう習ったでしょうか。これも「の+連体形」の形ですが、これは同格の「の」とも解釈できます。「紫がかった雲が細くたなびいている!」という連体止めとも、「紫がかった雲で、細くたなびいている(雲)」という同格にも読むことができる。おそらく「主格+連体止め」の方が主流だと思いますが。余談ですが、「紫が飼った蜘蛛」と漢字変換されました。雀から、蜘蛛へ。

 

品詞分解

ハ行下二段活用動詞「ながらふ」の連用形/接続助詞/
ながらへ/て/

カ行四段活用動詞「生く」の命令形/完了の助動詞「り」の未然形/
いけ/ら/

接続助詞/名詞/格助詞/名詞/格助詞/副助詞/
ば/のち/の/春/と/だに/

ラ行四段活用動詞「契る」の未然形/打消の助動詞「ず」の連体形/
契ら/ぬ/

名詞/格助詞/名詞/格助詞/ラ行四段活用動詞「散る」の連用形/
さき/に/花/の/散り/

完了の助動詞「ぬ」の連体形
ぬる